水景の雑記帳

雑談多めの「深く考えない脊髄反射的な」ブログ。ほどよい息抜きに。

時間に対する不寛容さ

 

 私が高校生の頃に読んだある小説のあとがきに書いてあった言葉が

 ずっと頭から離れずにいたのですが、

 特に、最近になって、脳裏によぎるようになってきました。

 

 その小説のあとがきには、こんなことが書いてありました。

 (原文通りではないと思いますが、だいたいの趣旨は合ってるはず。。。多分)

 

 

 

 学生の自由な生活がずっと続けば良いのに。

 告白して失敗するくらいなら、好きな人とずっと友達でいられたら良いのに。

 この一瞬が、永遠に続けば良いのに。

 そんな風に「このままでいたい」と思う気持ちは、誰しもあるだろう。

 

 この暮らしが、家族が、友人が、明日が、何の疑いもなく

 やってくると誰しもが考える。だからこそ、明日を安心して迎えられる。

 これもまた、当然と言えば、当然な考えだろう。

 

 しかし、それは、時間に対して不寛容な態度だと言わざるを得ない。

 時の流れと共に常に世界は変化し続けているという事実からの逃避である。

 

 そんなことはわかっている。皆が皆、おそらく、そう言うのだろう。

 しかし、そうとわかっていても、それを認めることが難しいことも事実。

 

 そんな「時間」に関して、相反する感情を持ちながら、

 人は生きている。

 

 

 

 こんな感じのことが書いてありました。

 ただ、肝心な記憶が欠落しています。

 つまり、何の小説だったか、タイトルも内容もさっぱり思い出せないのです💦

 

 しかし、「時間に対して不寛容である」というフレーズが妙に刺さったのは

 はっきりと覚えています。

 

 

 いつまでも夢見る若者ではいられない。

 いつかは職を得、家族を持ち、誰かの何者かにはなるだろう。

 しかし、その「いつか」がいつやってくるのかはわからない。

 

 過去のことは、現在の自分の「記憶」として観測できる一方で、

 未来のことは、現在の自分にも予測不能、制御不能で観測すらできない。

 だから、未来のことについてこれ以上考えても意味がない。

 一体、この著者は、何が言いたいのだろう?

 

 このあとがきの文章を読んだ当時の私が、こう思ったことも覚えています。

 

 

 しかし、実際に、15年も前の過去に思いを馳せると、やはり、

 当時の私と今の私との間に「時間に対する不寛容さ」がなかったと言えば、

 嘘になります。  

 

 もしかすると、今からさらに15年経った46歳の私との間にも

 「時間に対する不寛容さ」がきっとあるのかもしれません。

 

 人間、「過去」を振り返ると、

 どういうわけか、「あの時は良かった」という感情を持つ傾向にあるらしいです。

 

 今の現状に満足できていないのか、

 こんなはずじゃなかったという後悔なのか、

 今までの関係性や環境の変化への不安なのか、

 あるいは、単に漠然とした未来への不安の表れか。

 

 いずれにせよ、「過去」と「現在」とのギャップに対して、

 マイナス感情を持ちがちであろうと私は思うのです。

 

 

 これと似たような話がもう1つ。

 伊坂幸太郎氏の『砂漠』という小説のあとがきにも、

 かなり興味深いことが書いてありました。

 (こちらは、現物があるので、原文通りに載せます)

 

 

 小説終盤に、

 「学生時代を思い出して懐かしがるのはいいけれど、

 あの頃に戻りたいと思ってはいけない」という台詞があります。

 その台詞は、僕が小学校の卒業の日に、実際に先生から言われた言葉がもとに

 なっています。卒業式が終わり、教室に戻った後、担任の先生は僕たちを

 見渡すと、「思い出すのはいいけれど、小学校の頃は良かったな、と

 思っちゃいけない。あの頃に戻りたいという気持ちになっちゃだめだよ」と

 言いました。

 

 

 

 懐かしがるのは良いけれど、「戻りたい」と思ってはならない。

 これもまた、「時間に対する不寛容さ」を言い表した言葉に私には思えます。

 

 時間は進みはするけれど、決して戻りはしない。

 「時間」とは、人間が作った概念に過ぎないのかもしれない。

 しかし、時間の概念を抜きにしても、

 「事実、あったこと」を「なかったこと」には決してできない。

 あるいは、「なかったこと」に「できない」のではなく、

 「してはならない」と言っても良いかもしれない。それが自然の摂理。

 

 しかし、そんなことは頭ではわかっていても、

 自分の感情は、どうしようもなくそれを認めたくない。

 「戻りたい」「あの頃は良かった」と思ってしまう。

 

 それが、「時間に対する不寛容さ」に他ならないけれど、

 こういう矛盾を抱えながらでも、人間は日々を暮らしている。

 

 先日、31歳になったばかりの私。

 15年前の16歳の頃の私とは、様々なものがすっかり変わってしまいました。

 

 ただのお兄ちゃんだったのが、今や甥っ子がいる叔父になり、

 父と母も還暦をとうに過ぎ、日に日に老いてきているのが目に見えるようになり、

 12年連れ添った最愛の愛犬も昨年、旅立った。

 

 将来どんな仕事をしているのかなど想像から、確たる答え、現実になり、

 彼女や結婚のことは、未だわからないけれど、

 少なくとも、今この瞬間では、まだ実現はしていない。

 

 こう思うと、未来への恐れ、「時間に対する不寛容さ」の根源は、

 未来の可能性が狭まっていくことを実感するからなのではないかと思います。

 

 16歳の私なら、

 必死に勉強すれば帝大ランクの大学に行っていたかもしれない。

 大学在学中に企業でもして、一国一城の主になっていたかもしれない。

 おしゃれして、人付き合いも良くて、女の子から引く手数多だったかもしれない。

 

 実現するかどうか、その可能性がどれだけあるかは抜きにして、

 そういう未来への想像を何通りにでもすることができた。

 

 しかし、15年経った今では、

 修士号という最終学歴で、今の職業を持ち、様々なものが変わった。

 

 31歳なんて、まだまだ若造じゃないかと言ってくれる人もいるけれど、

 それでも、16の頃の自分と比べると、想像できる未来の範囲が狭くなっている。

 

 少なくとも、無限の可能性を秘めた、将来の日本を担う金の卵ではなくなった。

 そんなことを言っていられる年齢ではなくなった。これが現実。

 

 では、もっと先の私、例えば、60歳の私はどう思うのだろう。

 今よりも、未来への可能性が狭まり、究極的には「死」という誰もが逃れられぬ

 たった1つの「結果」に収束していく。それに恐怖するのだろうか?

 

 私自身の未来への悲観的な考え方をしているということではなく、

 ただ、人間の心理として、どう感じるのだろうという純然たる疑問。そんなお話。