水景の雑記帳

雑談多めの「深く考えない脊髄反射的な」ブログ。ほどよい息抜きに。

子供は、小さな哲学者なり。

 

 今朝、何となくコンビニに立ち寄り、レジ待ちをしていたら、

 私の前でお会計をしていたある親子がこんな話をしてました。

 

 店員「お会計、2300円になります」

 母親「じゃあ、3000円で」

 店員「ただいま、500円硬貨が不足してまして、

    全て100円硬貨でよろしいでしょうか?

 母親「ええ、かまいませんよ」

 店員「では、700円のお返しになります」

 子供「お母さん、お金増えたよ!よかったね!」

 

 

 ・・・。

 最初は私はこの子供の「お金が増えた」という言葉に思わず「ん?」と

 首をかしげてしまいましたが、よ〜く考えてみると、納得。

 

 

 おそらく、4歳くらいの子だったでしょうかねぇ。

 まだ、「お金」の概念をよく理解していないのでしょう。

 3000円で払って、700円のお釣りをもらえば、

 2300円分「減っている」と考えるのが普通の感覚ですが、

 その子からすれば、お札3枚で払ったものを硬貨7枚で返ってきた様子は、

 まさに「増えた」と思えたのでしょう。

 

 

 

 その時にふと、昔に教えたある子のことを思い出しました。

 

 私は、学生の頃から家庭教師のバイトをしていました。

 対象は主に中学生〜高校生。思春期真っ盛りの難しいお年頃の子たち。

 教える科目は、完全オーダーメイド制。つまり、「何でもあり」の条件。

 

 そんな中でほぼ全ての子がオーダーしてきた科目は英語。

 私は英語は得意中の得意なので、それほど難しくもないだろうと思ってました。

 

 ただ、1人だけ、私を窮地に立たせた強者な子がいました。

 英語の名詞の単数と複数の単元を教えていた時のこと。

 

 名詞には、「数えられるもの」と「数えられないもの」があって、

 複数形は、「数えられるもの」のみに与えられた形だと教えたら、

 

 「先生、じゃあ apples って何を数えたものなの?」と聞かれました。

 

 これだけでは、一体、何がこの子にとって疑問なのか理解できずに

 その質問の意図を聞いてみると、こういう理屈を展開しました。

 

 「apple がリンゴを意味するなら、apples はリンゴが2個以上あるはず。

  でも、それは「切っていないリンゴ」「リンゴ丸1個」を前提とするのか、

  それとも、「切ったリンゴ」も apples と言っても良いのか。

  つまり、リンゴ丸1個だったとしても、切れば複数になるじゃないか。

  それに、日本語では、リンゴ1個って言うけれど、

  丸1個の意味でも、切った中の1個という意味でも使えるじゃないか。」

 

 これを聞いた瞬間、なかなかに鋭い目線を持った子だと感心しつつも、

 要するに、この子が抱いている疑問とは「数の概念そのもの」についてであり、

 これは、もはや英語というよりも、ある種の哲学かもしれない。

 と、私は果たしてどう答えて良いものかかなり悩みました。

 

 英語では、そういう場合は a piece of を使えば表現できる。

 そのように言えば、一応、この質問の答えにはなります。

 しかし、それは、同時に apple を「数えられる名詞」と教えたにもかかわらず

 「数えられない名詞」として扱うことを意味するわけです。

 語学にはありがちな「例外だ」と言ってばっさりと切ることもできますが、

 この子は絶対にそんなことでは納得はしない。そう直感しました。

 

 では、数学的に考えるか?

 いや、だめだ。たとえ、1は1だと言っても、やはり納得しないだろう。

 1は1でも、0.1とか0.01とかいくらでも「小さくいっぱいにできる」とか

 そんなことを言ってくるに違いない。

 

 かと言って、私の教師としての力量を試そうとする

 意地悪な生徒というわけでもない。

 ただ、純粋に疑問に思っている。そんな眼差しだ。

 

 じゃあ、一体、「数」って何だ?

 我々は、日常で何の疑問もなく数を数えて生活しているが、

 この子にとっては、それが当たり前ではないのだから、

 「数」というものの本質たる何かを教えねば納得はしないだろう。

 どうする・・・?

 

 

 この時の私が、この子にどう教えたかはまた機会があれば書きますが、

 700円のお釣りを見て「お金が増えた」と言ったあの子にしても、

 apples が意味する「複数とは何か」と言ったあの子にしても、

 概念というものの確立が未だ曖昧であるがゆえに、

 概念を確立したと思って生活する我々にとっての「当然」が「当然」ではない。

 

 そして、いざ、その「根源的な疑問」をぶつけられた時に、

 果たして、我々はどのように教えるべきか。

 何となれば、考えているこちら側もその概念の理解について、

 「一体、何なんだろう?」と見えるようで見えなくなることもあるのだから、

 不思議なものだ。

 

 当時、私は哲学を専攻する学生だったので、

 「子供な小さな哲学者なり」という文献の断片を読んだのを思い出し、

 そんなことを私に教えてくれた当時の教え子を

 私は「小さな哲学者」と呼んでその発想の鋭さを賞賛したものです。

 

 そして、今日もそんな「小さな哲学者」に出会った。

 そういうお話。

 

 

 後日談

 apples について疑問を持ったその子は、今では大学2年生。

 そして、先日、その子のお母さんにたまたまお会いして話を聞くと、

 あの授業以来、哲学に興味を持ったらしく、哲学を専攻しているとか。

 あんな風な根源的な疑問を純粋に持てるような子ならば、

 きっと哲学の世界はさぞ「魅力的な疑問に満ちた世界」に見えているはず。

 卒業論文を書いたら、ぜひとも読んでみたいと思った私です。