今年の夏頃から、およそ3年計画で
4つの国家資格を取ろうかと思い、勉強中です。
今、勉強しているのは、
仕事内容も、資格の持つ権限も全然違うこの4つの資格ですが、
共通しているのは、ある程度の法律知識が問われるということ。
健全な運営、顧客との信頼関係、安全な取引。
それらを実現するためには、法律知識を知っておかねばなりません。
私は、もともと文系で、修士号の学位までは持っているのですが、
法律系は専攻していなかったし、必修でもなかったので、避けてきた世界です。
ただ、法律を学んでみて、思うことを少しお話します。
言うまでもなく、日本は法治国家であり、
この国を規定するために、憲法を最高法規とする法律体系を構築しています。
その中でも、特に目を引くのは、やはり憲法9条。
一般に、「平和主義」「戦争の放棄」と解釈されている条文です。
さらに、1970年代頃から言われ出した「専守防衛」という概念。
今では、憲法9条の改正、すなわち、「自衛隊」という文言を追加すべきか否かが
しきりに議論されているわけですが、私は、少し疑問に思うのです。
もし、本当に、専守防衛が徹底されるべきであるのならば、
国は、果たして、国民を守るつもりがあるのだろうか?と。
一般に、解されている「専守防衛」の概念は、
① 相手から武力攻撃を受けた時に始めて発動し、
② 武力の行使も自衛目的の最小限度に留め
③ 憲法の「平和主義」の精神に則った受動的な戦略概念である
こういう形式であろうかと思います。
しかし、本当に、この形式を徹底するのならば、
誰かが血を流さなければ、国民を守るための自衛行為すら許されない
ということになりはしないか?という疑問が残るのです。
簡単に言ってしまえば、「やられたら、やり返す」と言っていることは
大差ないと思いますが、問題は、「一度は、やられなければならない」こと。
たとえ、この国に侵略目的で軍を派遣しているとわかっていても、
実際に、こちらに手を出さない限りは、自衛隊も動けない。
初めの1発目の弾が、誰かを傷つけなければ、発動できない。
それは、この国の「誰か」が犠牲にならなければならないということを
意味するのだろうか?
専守防衛の概念があるからこそ、抑止が成り立つのだと言う人もいますが、
私には、この概念はもはや形骸化していると言わざるを得ないと思います。
真剣に考えなければならない時が来ているのだというのが私の考えです。
こうした課題が議論され続けても、なかなか結論に達しないのは、
日本は、戦争を認めるということになるのでは?というのが大きいでしょう。
誰だって、できることなら、戦争なんかしたくはないでしょう。
毎日毎日が命のやり取り、家族も、友人も、恋人も、全て失うかもしれない日々。
誰も、そんな日々を望みはしないはずです。
しかし、人類の歴史を振り返ると、
定期的に、人類は互いに争い、血を流し、大切な何かを失い続けてきました。
そして、皮肉なことに、
争いが、人類を進化へと導いてきたことも事実と言わざるを得ません。
腕時計も、ライターも、PCも、プログラミング言語も、ネットも、人工衛星も、
今や、我々の生活を便利に豊かにしてくれているものも、
元を辿れば、いずれはどこかで戦争に行き当たります。
今、2023年を生きる我々、日本人は、
世界を平和だと感じているのでしょうか?
おそらく、
多くの人は(私も含めてですが)この問いに「はい」と答えるのでしょう。
しかし、同時に、
心のどこかで、「これが本当に平和か?」という疑問も持っているのでは?
人類の歴史が証明しているように、
どの国の時代にも、比較的安定した「平和と言えなくもない状態」もあれば、
どう見ても争いが絶えない「激動の時代」もあります。
今、この瞬間を生きる私たちにとっては、
まさにこの今が「平和と言えなくもない状態」なのかもしれません。
しかし、「言えなくもない」という非常に不安定な状態だからこそ、
明日も「平和と言えなくもない」という保証はどこにもなく、
心のどこかで「本当にこれが平和か?」という疑念が生まれるのやもしれません。
様々な学問分野から「平和」に関する研究論文は数多く出されています。
それらは、決して単なる学術的好奇心で書かれたのではなく、
それぞれの学問分野で証明できる「平和」の形を模索しているように
私には見えます。
もちろん、私もそういった話題にはまだまだ勉強不足で、
あまり深く突っ込んだ考えは及びませんが、
毎日、新聞を見て、法律を勉強し始めて、そんな風なことを思うようになった。
ただ、それだけのお話。