うつ病治療もようやく功を奏して、
職場への復帰の目処も立ってきました。
知っている方は、知っているかもですが、
職場のある街の社宅に居を移して行動しております。
6月からは、実際に職場に顔を出して
具体的な復帰へのリハビリに入る予定です。
今でこそ、けっこう好き放題な感じでやってますが、
初めは、「病んでる時」に始めたのがこのブログの原点。
一時は、うつ病に悩んでる人と仲良くなろうかなといったノリで始めたものの
この記事で、鬱系の話題は止めにします。
正直、鬱になって、地獄の釜の底の底まで落っこちてみて分かったのは、
この病の苦しさは、絶対に誰にも理解されないということ。
たとえ、親・兄弟、医者、親友であったとしても。
当然、同じ「うつ病」に苦しむ人にとっても、お互いに理解し合うのは難しい。
それが現実なのだということを嫌というほど味わったから。
だって、うつ病にならなくたって、
人と人が理解し合うこと自体がめちゃめちゃ無理ゲーなのに、
鬱なんて厄介なものを抱えていたら、そりゃまぁ、ねぇ?
というわけで、
今回は、鬱に苦しんだ約2半の間に私が得た学びのお話。
鬱で病んでた自分との決別のためのお話。
突然ですが、
リスクってあった方が良いと思いますか?
それとも、無いに越したことはないと思いますか?
人間、生きていればそれだけで色んな「リスク」に晒されています。
お金、家族関係、人間関係、職業、結婚相手、事故、病気、犯罪、などなど。
数え出したらキリがないほどに、色んな「リスク」があることでしょう。
その中で、何をもって自分の中で「良し」とするのかを判断しながら生きている。
あるいは、自分が「納得する方法」」や「妥協点」を探して生きている。
それが、この世のリアルな姿だと私は思うのです。
極端な話、
あなたの隣にいる「友人」だと思っている人をどれだけ信じられますか?
このまま「仲の良い友人」でいられたら、それが一番幸せなんでしょうけど、
もしかしたら、自分だけが「友人」と思ってるだけで、裏切られるかもしれない、
もしかしたら、「お金貸して」とせがまれて、トラブるかもしれない、
もしかしたら、実はその友人は犯罪に手を染めているかもしれない
もしかしたら、・・・
なんて、ただ「友人」というテーマだけで、
自分への「リスク」がどれだけあるかを考えたら、無数にあると言えるものの、
そんなことをいちいち考えながら付き合い続けるわけもないでしょう。
ただ、「(今のところは)良き友人である」という風に
自分にとって、合点のいく形で人との付き合い方を判断しているはずです。
こういう視点で考えてみると、
実は、「リスクは無いに越したことはない」なんてのは幻想だと思うのです。
むしろ、
「リスクは多少あるけれど、この形なら譲歩できる」と判断するのが
多くの人の判断基準であり、それが日常生活に一定の安寧を与えているのです。
ただ、それがこの世のリアルだと言ったところで、
それでも、リスクは避けたいと思うのが人情かなとも思うのです。
例えば、
好きな異性がいたとして、告白するかどうか。
仮に、告白した前提で考えると、この先、考え得る展開は、
・告白に成功して、お付き合いが始まる
・相手に何か理由があって、交際できないと断られる
・相手に今は交際できない事情があるけれど、時間を経て交際し始める
・単純に相手に好かれておらず、あっさりフラれる
ざっと考えただけでも、これくらいの展開は自然に起こり得るでしょう。
逆に、告白しなかった前提で考えてみると、
・実は、相手も自分のことが好きで、逆に告白されてOKする
・実は、相手も自分のことが好きだけど、相手も告白しない
・相手には別に好きな異性がいて、その人と交際し始める
・相手には恋愛感情は全くなく、そもそも恋愛対象として見られない
こちらもざっくり現実味のある範囲で考えるとこんな感じでしょうか。
単純に、
「告白した前提」と「告白しなかった前提」のそれぞれの結果を比べてみると、
「自分にとって好ましい結果」となり得る可能性があるのは、どちらでしょう?
好きな異性がいるのなら、その人と「付き合いたい」とか「結婚したい」とか
そういう「結果」がおそらく「自分にとって好ましい」と言えるはず。
それならば、「告白した前提」の方が、その「結果」に近づける可能性が高いと
考えるのは、ごく自然なことではないかと思います。
そもそも、好きな人がいても、何もしなければ何も始まりませんからね。
しかし、「告白した前提」での「結果」でも「フラれるリスク」はある。
その「リスク」を避けたいと思う人もいるとは思います。
別な例でも考えてみましょうか。
仮に、「バンジーやったら1回につき1万円あげる」と言われたら、
あなたは、バンジーをやりますか?
おそらくですが、「やらない」人が多いのではないかなと私は予想します。
私は、バンジーはむしろやりたいと思ってるので、
1万円の話がなくてもやると思いますが、少数派だと思うのです。
だって、高いとこから落っこちるって怖いと思うほうが多数派でしょ?
でも、「バンジーやったら、1回につき1億円あげる」だったらどうですか?
私はバンジーはやってみたいですが、
どうせやるなら、1万円よりも1億円もらいたいと思う派です。
みなさんは、どうですか?
1億積まれたら、「怖いけど、やろうかな」と心揺れませんか?
それも、「1回につき1億円」ですよ?
勇気だして10回やったら10億円ですよ?
と、まぁかなり極端な例を2つ挙げましたが、
「欲しい結果」があるなら、「相応のリスク」はつきまとうのではないの?
これが、私が言いたいことの根本です。
「結果」は、「リスク」に比例する。
要するに、ハイリスク・ハイリターン。これです。
何を当たり前なことをこんな長々と・・・
と思えた方は、心身ともに健康な証拠だと思います。
でもねぇ、そうは思えない人もいるんです。中にはね。
鬱になる直前の私、鬱になった直後の私なんかがそうでした。
私は、
昔から「真面目」とか「努力家」とか人から言われることが多い方でした。
ちょっと前の記事でも書きましたが、
欲しい結果のためなら、手段は選ばない、実現するだけの力を得る
そんな生き方をしてきました。
そういうタイプの人間って、けっこう危うい微妙なバランスで生きているもので、
基本的に「最大のリスクを背負って最大の結果を追求する」わけですよ。
それを「勤勉」「努力家」なんて言葉で言えば聞こえはいいですが、
今の私から見たら、ただの「身の程知らずのアホそのもの」です。
さっきのバンジーの例で言えば、
100億欲しければ、100回飛ぶだろうし、
1000億欲しければ、1000回飛ぶでしょう。
でも、普通に考えて、
バンジーを100回とか1000回とか飛んだら、体が保たないでしょう?
その「普通」の感覚がぶっ飛んでいたのが、以前の私なのです。
先の言い回しをすれば、
自分が合点のいく形の妥協点を見つけることをしない。
自分がどれだけ危ないことをやっているかの自覚すらない。
私みたいな極端なバランスで生きていることの何がまずいのか。
それは、「リスクを取らないためにリスクを背負う」という本末転倒なところ。
100回でも1000回でもバンジーを飛ぶのは、
最悪、働けなくなっても生涯を全うできるくらいのお金がほしいとか
自分の老後の渡世で100億、1000億あっても足りないかもしれないとか
そういうことを考えているからであって、
仮に人生80年と見積もって、残り50年間の間にそんな状況に陥ることが
果たしてどれだけあり得るのかという核心部分については考慮していないのです。
こんな風に恐れていることが絶対に起こらないという保証は当然ない。
しかし、そうなるであろうという見込みも限りなく低い。
それでも、100回、1000回、バンジー、飛びますか?という話。
告白するしないの例でも同じです。
以前の私なら、告白しない選択をしたでしょう。
だって、「フラれる」という「リスク」を負いたくないから。
でも、「告白しない」前提の結果から予想したように、
「意中の人がいても、何も進展しない」可能性が非常に高いわけです。
告白するしないと考えている時点で、
自分にとって「最も好ましい結果」とは「意中の人と交際すること」でしょう。
しかし、自分からそれに近づく可能性を捨てにいっているのは、
「フラれる」ことの「リスク」よりもはるかに高くついた「リスク」です。
しかし、それに考えが至らない。
木を見て、森を見ず。眼中のリスクを避けて、核心に迫る結果に近づけない。
それこそが最大の「リスク」だとも知らずに。
もっと単純に言えば、
結果は自分が無傷なままで欲しい。
少しでも自分が傷つくのなら、別に結果は伴わなくてよい。
そんなバカなことがあるはずもないだろう。
今の私なら、そう言えますが、当時の私の思考回路はそんな感じ。
それが「リスクを負ってリスクを避ける」というアホ丸出しな生き方だと
私は感じるのです。
当然、リスクを小さくする努力も必要だとは思います。
いわゆるリスクマネジメントと言われる行為のことですね。
しかし、真の意味での「リスク」とは何かを見極める必要はある。
結果が欲しいなら、それ相応のリスクは覚悟すべきだ。それにも異論はない。
しかし、実際に自分が必要としている以上の結果を追求することはどうだろう。
それも、自分が求める「結果」と「リスク」の本質が分かってないと思う。
要するに、バランスが大事だという何とも平凡な結論に行きつこうとしていますが
それを「平凡」「普通」「当たり前」と思えるか思えないか。
それが自分の心身の健全性を測る1つの指標になると私は考えています。
心穏やかな状態であれば、
自分自身の本質的な「必要性」と「リスク」のバランスが理解できるから、
自分にとって最も納得がいく「妥協点」で良しと考える。だから、無理をしない。
一方、心を乱した状態になると、
根拠のない不安、敵意、憎悪、様々な感情に支配されて
自分にとって過剰なほどの「結果」を欲しがろうとしたり、
反対に、自分にとって必要なはずの「結果」を自分で手放そうとするという
矛盾した行動原理に陥り、余計に混乱し、思考を乱し、無理をする。
それを心理の世界では、「認知の歪み」なんて言葉で表現したりしています。
長々とわかるようなわからないような話をしてきましたが、
最終的に最も簡潔にまとめるなら、「なんとかなる」という言葉が嫌いかどうか。
もし、嫌いだと感じるなら、少し疲れているのかもしれません。
心を乱した状態だと、「なんともならない」と感じることが多いのです。
正直、「なんとかなる」という言葉はけっこう無責任な言葉で、
なんとかなって欲しい局面でも、どうすれば「なんとかなるのか」を示すわけでも
具体的に「なんとかなる」見込みがあるのかないのかを示すわけでもない。
本当に、根拠のない、ただの気休めでしかありません。
しかし、「なんともならない」と考える状態に陥ると、
なんともならないと思っていることにも何の根拠もないのに、
なぜかマイナスな方向へと引き込まれていく。自分でも気づかないうちに。
そうして、自分でも気づかないうちに溜まりに溜まった疲労やストレスが
爆発すると、私みたいに鬱になったり、体を壊したりして
自分の心身が悲鳴をあげて初めて「あ、やべ」と自覚するわけですが、
そうなるともはや収拾のつかない事態になっていることが少なくないのです。
健康は、失って初めてそのありがたみに気付かされる。なんて言いますが、
これ、本当の本当にその通りで、1度でも健康を害したら治すまで長丁場です。
私みたいに2年くらいで「なんとかなった」のは運の良い方だと思います。
人によっては、3年、5年、10年、ずっと苦しむ人もいるそうです。
本来なら、そこまでダメージが深刻化する前に
何か手を打っておけば良かったなと思いはするものの、後悔先に立たず。
だって、壊れるまで自分自身でも気づいてないから、何もしない。できない。
私は運悪く、うつに罹って2年間地獄を見てきましたが、
逆に運良く、2年くらいで「なんとかなった」人間です。
そして、心の冷静さも取り戻しつつある今だから言えることは、
「人生、案外、なんとかなるかもよ?」の一言。
この言葉をもって、私は鬱と決別し、
新生「水景」を明日から生きていこうと思います。
何やかんや、過去最長記事記録を更新してしまいました。
ここまで、書きまくっておいて言うのも何ですが、
今回のこの記事の内容、
できればみなさんには「??」とわからないままでいてほしいところです。
多分、心身が元気な人には、この内容は頭に入ってこないというか、
当たり前すぎて読む価値すらないと感じるはずなので。
でも、もし「あ〜わかるわ〜」「しんどい〜」と思った人がいたら、
「案外、なんとかなるかもよ?」って水景が言ってたなと思い出してくれれば
それだけで十分だと私は思います。
どうか、この内容が多くの人にとって価値のない記事であることを願って。
さらば、私の鬱よ。さらば、弱き心の私よ。
しかし、ありがとう。お前は私の影だ。
お前を影として抱いて、私は前に進む。
真により強く生きていくための礎として、お前の存在を無駄にはしない。