水景の雑記帳

雑談多めの「深く考えない脊髄反射的な」ブログ。ほどよい息抜きに。

闇を怖れるな!! 「一寸先は闇」? 「お先真っ暗」? 上等じゃぁ!!

 

 一寸先は闇。

 

 一般的には、

 「少し先のことでもどうなるかわからないから備えておきなさい」

 という意味で用いられていると私は理解しています。

 

 そして、よく人生観を語る時にも使われますよね。

 

 私が思うに、普通の感性を持っている人なら、

 一寸先は闇と聞けば、そこに少なからず不安や怖れを抱くのでは?

 

 だって、そうでしょう?

 明日も自分が生きている可能性は100%かと言えば、違いますよね。

 もしかしたら、不慮の事故に遭うかもしれないし、急病になるかもしれない。

 

 でも、そんなことをいちいち考えたり、怖がったりしていては

 生きるのしんどすぎますよね。

 

 だから、一旦、一寸先の闇のことは棚上げにして

 とりあえず「今」生きていることは事実だから、「今」を頑張ろう。

 そんな風に考えている人も多いのではないでしょうか。

 

 

 でも、私は思うんです。

 闇ってそもそも怖れるに足るものなのか?と。

 

 人間は、想像力があるから、知性があるから、暗闇を怖れると

 動物行動学などではよく言われています。

 

 ただ、私からすれば「本当にそうかぁ?」と言いたくなります。

 

 だって、寝る時、部屋を暗くするでしょう?

 それ、怖いですか?そんなことないですよね。

 

 

 では、逆に、「人間は光の中にいれば安心できる」という説を立ててみましょう。

 私は、この説も違うと思います。

 

 というのも、

 たとえば、冬の凍りついてテッカテカの地面に朝日が当たる。

 一瞬、光が眩しすぎて視界がきかなくなりますよね。

 もし、それが自動車の運転中だったら?

 たとえ一瞬だったとしても、自動車なら数十mは動いてますよ。

 じゃあ、その数中mの間に人がいたら・・・?これ、怖くないですか?

 

 

 では、「人間は闇を怖れる」「人間は光の中にいれば安心である」が

 どちらも真ではない命題であるということになりそうですが、

 だったら、闇を怖れる理由もなくないですか?

 

 

 眠る時の寝室の薄暗さが心地よく感じることもあるように、

 暗い=怖いという等式は必ずしも正しいとは限らないはず。

 

 確かに、

 一点の光もない中でこの先の地面がどうなっているのかを判別は無理です。

 しかし、判別できないから怖いと感じるのは違うと思うのです。

 

 

 もし、

 「この先15mは平均台くらいの足の踏み場しかない上空70mの場所です。

  ここを真っ暗闇の中、歩いてもらいます」

 なんて言われたら、まぁ怖いですよね。

 

 ただ、そんなカイジの鉄骨渡りみたいな状況に陥ること、人生にありますか?

 

 確かに、上空70mの場所から足を踏み外せば、地面に真っ逆さま。

 命の保証はまずないでしょうね。

 

 でも、人生の選択において、

 間違った瞬間、人生終了。なんてことありますか?

 

 もし、あるとすれば、

 戦争でもしている地域で、地雷原がどこにあるかもわからないような場所とか

 そんな極限状態でしか、あり得ないと思うのです。

 

 幸い、我が国日本は、今のところは、戦争もしていなければ、

 他国が侵略してくる不穏な動きもない。

 

 ということは、私たちの人生は極限状態ではないわけです。

 なら、暗闇を怖れる必然性ってどこにあるんでしょう?

 

 きっと、ないと思いますよ。私は。

 

 え?それでも、やっぱり怖い?不安?

 

 なら、別の聞き方をしましょうか。

 「これがこの先のあなたの人生です」と言って、

 未来の何から何まで全〜部わかっちゃう魔法があったとしましょう。

 

 それで、安心できますか?

 

 じゃあ、安心できたとして、そんな人生に興味が湧きますか?

 

 人生の全部を光で照らしてしまうと、

 究極的には「めっちゃつまらない人生」になると思うんです。

 

 暗くて見えない闇が途中にある。

 その間の道はどうなっているかわからない。

 一寸先は闇。

 

 でも、闇の中でも「踏み外した瞬間、人生終わりではない」という

 一応の前提の中で生きる私たちは、そこまで怖れる必要はないんじゃないかな?

 

 暗闇の中、あるとすれば、

 地面がでこぼこしていて、つまずいて転ぶとか

 氷のようにテッカテカで滑ってしまうとか

 それくらいじゃないですかね?

 

 つまずいて転んだ経験があれば、つまづいた時に体を守る行動ができるはず。

 氷の上をつーっと滑った経験があれば、滑るから気をつけようと思うはず。

 

 もし、全部が全部光で照らされていたとして、

 こっちは、つまずくかもしれないから避けよう

 あっちは、滑りそうだから避けよう

 そんな風に避けてばっかりの人生で、満足できますか?

 

 

 

 また、話をちょっと変えて、

 「望みが薄い」って言葉を聞いてどう感じますか?

 

 文字通り、望みが薄いのだから、きっと実現しないだろうなぁ。

 そんな風に感じた方、それは違うと私は思いますよ。

 

 では、「希望」という文字を見てどう感じますか?

 

 なんとなく、前向きなイメージですか?

 でも、希望の希って文字は「薄い」って意味なんですよ。

 だから、希望は「希い望み」とも読めてしまうんです。

 

 だったら、結局、望みが薄いと希望って同じじゃないですか?

 でも、どちらも後ろ向きな言葉ではないと思います。

 

 なぜ、「望みが薄いのか?」

 それは、望みってどうしても未来にあるものだから、

 今の時点からその未来はあまりにも遠すぎて、色の濃淡もわからないから。

 

 5km先の信号機が何色かなんて、見えるわけないですよね?

 これと同じようなイメージです。

 

 未来にかけている望みは、現時点からは遠すぎるのです。

 でも、ただ遠いだけであって、存在しないとは言っていない。

 

 5km先の信号機がここからでは見えなくても、

 5km近づけば見えるでしょう?

 そこで、初めて信号機が何色かがわかるはずなんです。

 

 未来も同じ。

 今は遠すぎるかもしれないけれど、

 その未来に向かって一歩ずつ進んでいけば、いずれは未来の色が見えるはず。

 

 近づいてみれば、めっちゃ濃い色の未来かもしれない。

 もしかしたら、薔薇色の華やかな未来かもしれない。

 ひょっとしたら、黄金色に光り輝いていることだってないとは限らない。

 

 一寸先の闇にしろ、未来にしろ、

 「わからない」「まだ見えない」ことに恐怖を感じるのではなく、

 むしろ「ワクワクする」と興奮を感じてみてはどうでしょう?

 

 怖い、不安だなんて言って、一歩も進まなければ

 ずっと暗い中で置き去りになっちゃいますよ。

 

 怖いかもしれないけど、

 不安かもしれないけれど、

 たった一歩を前に踏み出すだけで、見える景色が変わるかもしれない。

 

 そこに、「興奮」や「喜び」を感じることができる人生だったら

 けっこう面白いと思いませんか?

 

 

 え?あ、そう。それでも、不安だし、怖いかぁ。

 頑固な人ですね。

 でも、一度くらいは信じてみたっていいじゃないですか。

 もし、間違った道だったとしても、それを正解にしてしまえるくらいの

 気概は持っていてほしいものです。

 

 

 わかってます?

 そこのなんとも浮かない顔してる、水景さん?

 あなたのことですよ〜〜〜〜?